統一教会問題シリーズ                         国会議事録の中の統一教会:研究ノート(1)

研究ノート

研究ノート

                               

はじめに

 日本国憲法では、民主主義及び国会重視の立場から憲法五七条で会議公開の原則を定めている。会議公開の原則とは、傍聴の自由、報道の自由及び会議録の公開を含むものと解されている。とりわけ会議録を公開するとした二項で「その会議の記録を保存し秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められる以外はこれを公表し,且つ一般に頒布しなければならない」とあって、会議記録を一般へ頒布することを明言している。この条項を担保するため平成12(2000)年より「国会会議録検索システム」が稼働し第一回国会から現在までのすべての会議録データを閲覧することができる。   

筆者 名古屋貢

第一章 帝国議会議事録の沿革

日本の民主主義を支えるためうえで欠かせない国会議事録の沿革を石倉賢一「国会会議録について」([1])から触れておく。

図1.『『源綱紀氏日本傍聴筆記法』日本傍聴筆記法

明治22(1889)年2月11日 、明治天皇は「大日本憲法発布の詔勅」を出され大日本帝国憲法が発布された。これで議会開設は目前のものとなった。議会を滞りなく運用するには議会制度を整備しておく必要がある。そのため明治政府は明治15(1882)年3月に伊藤博文等をヨーロッパに派遣し議会制度の調査を命じていた([2])。明治政府は伊藤等の帰国をまち憲法の起草に着手するとともに議会運営のありかたについても検討を開始した。中でも重要な問題の一つとなったのは議会記録をどうするかということであった。

元老院や府県議会などの会議記録はいずれも書記官がその要点のみを筆記する議事録であった。しかし,要領筆記の議事録では帝国議会の記録としては不充分で、その記録をめぐって疑義が生じるであろうことが懸念され関係者のなやみはつきなかった。明治22年6月,枢密院書記官長金子堅太郎は政府の命を受けヨーロッパ視察に赴き各国の議会関係者と懇談するなどして議会運営の実情について調査をおこなっている。当時のヨーロヅパ主要国の議会では要領筆記の議事録のほか速記録も記録として残していた。速記録は、演説や談話などを忠実に記録することで高い技術を必要とする。そのため金子は速記録の採用に否定的であったが、ヨーロッパの実情をつぶさに見聞したことで、一転してその必要性を痛感することになった。帰国後、金子は山県内閣に議会速記録を作成することを進言している。


([1]) 石倉賢一「国会会議録について」『大学図書館研究』大学図書館研究会(1984年11月30日)。

([2]) 石倉賢一「参議伊藤博文ヘ勅語並ニ欧洲派遣ニ付訓条」アジア歴史資料センター(A03022938400)。

ところで当時の日本では、議会速記を作成する技術が未発達であった。明治15(1882)年9月に田鎖綱紀(たぐさり こうき)が「日本傍聴記録法」([1])という速記術を考案していたものの重要な会議に利用するのは不安が残っていた。慎重な金子は、速記術の創始者である田鎖網紀門下の優秀な術者を集め実地試験を行った。その結果は,金子にとって満足の行く出来ばえであったことから漸く安心したという。明治21年7月になると官報局は、明治23年に帝国議会が開設することに合わせ会議議事録を官報で公示するために必要な要員の訓練を開始し国会開設に備えた([2])。日本の議会運営システムは帝国議会開会の時から速記録を中心にして完璧な形で機能することができた。戦後も、この議会運営方法は引き継がれ膨大な量の情報が蓄積され、現代ではキーワードで検索が可能となっている。会議録で戦前期分の明治23年11月~昭和20年8月までは画像で残されている。また、第1回国会(昭和22年5月)からの本会議及び委員会の会議録に付いては、テキスト又は画像で閲覧が可能となっている。

現在、日本の政界を揺るがすこととして「統一教会」と国会議員の癒着が大問題になっていて、同教団との関係を指摘された国会議員は枚挙に暇がない。中には政府中枢にいた議員までもが含まれている。釈明の会見をするというので、さぞや立派な会見があるかと期待すると、どの議員も異口同音に「知りませんでした」「今後は気を付けます」または「今後は一切の関係を断ちます」「襟を正します」「不勉強でした」等まるで木で鼻をくくったような態度に終始している。国会議員として調査歳費も受取っていることであり、少なくとも過去に国会内で如何なる論議が行われていたのかを検索しておいても良いのではなかろうか。


([1]) 源綱紀述『源綱紀氏日本傍聴筆記法』沢屋蘇吉(1985年2月)。

([2])内閣官報局員ノ内ヲ選ヒ本務ノ余暇ヲ以テ速記法ヲ学習セシム」アジア歴史資料センター(A15111600400)。

第二章 国会議議事録検索システムによる検索

第一項 検索キーワード(統一教会)

一、統一教会と勝共連合の関係

最初にキーワードとして単刀直入に「統一教会」を検索してみた。すると会議録には、「統一教会」の名称が62件(該当箇所:152)も存在する。国会内で相当な論議が交わされたことを窺わせる数字である。

同教団の名称が国会内で最初の議論となったのは昭和46(1971)年3月からである([1])。同会の中で警察庁刑事局保安部長長谷川俊之は統一教会と勝共連合について次のように述べている([2])。 ○長谷川政府委員 勝共連合は、その前は統一原理教会というふうに言っておりまして、これは韓国との関係は、韓国人の文鮮明という者が世界キリスト教神霊統一教会というものをつくりまして、そして宇宙を支配する根本原型は神である、その原理でいろいろ世の中をよくするのだというようなことを基本にしましていろいろやっているわけでありますが、その文鮮明の運動が統一原理教会、さらに勝共連合の基礎になっておるのでございます。そういうことで、韓国との関係は密接な関係があるわけでございます。


([1]) 「第65回国会 衆議院(地方行政委員会)第19号(昭和46年3月26日)」。

([2]) 同上会議「120 長谷川俊之」。

([1]) 源綱紀述『源綱紀氏日本傍聴筆記法』沢屋蘇吉(1985年2月)。

([1])内閣官報局員ノ内ヲ選ヒ本務ノ余暇ヲ以テ速記法ヲ学習セシム」アジア歴史資料センター(A15111600400)。

警察庁保安部長は「統一教会」の正式名称が「世界キリスト教神霊統一教会」であり、その指導者が「文鮮明」で、その関係団体が勝共連合であることを明言している。ではなぜ昭和46(1971)年に「統一教会」や「勝共連合」が問題となったのか。それは、同年に京浜安保共闘が栃木県真岡市の塚田銃砲店に押し入り散弾銃9丁、ライフル1丁、空気銃1丁、銃弾2300発を強奪した事件が発生したことから政府は「銃砲刀剣類所持等取締法」の一部改正を提案するなかで、過去に勝共連合が空気散弾銃二五〇〇挺を輸入し保持していたことが問題となった。同法律を改定する趣旨は、過激化する左翼運動を抑え込むためであった。ところが左翼運動と対立する勝共連合が政府の規制も受けずに大量の空気銃を輸入していたため質問にたった林百郎が、政府の対応は片手落ちではないかと追求したものであった。

図2.『鋭和3B』出所:https://ameblo.jp/chanu1/entry-11043470582.html(2022年8月28日 閲覧)

また同会議は山形栄治も、勝共連合が大量の空気銃を輸入した経緯について自身で調べた内容を公表し政府に確認を求めた。それによれば勝共連合は、昭和43(1968)年1月16日に統一教会関連の「幸世物産」を通じて空気散弾銃「鋭和(えいわ)3B」2500丁を輸入したという事実があきらかになった[1]。その勝共連合が輸入した空気散弾銃を製造したのは統一教会の関連企業「統一グループ」の銃器製造部門(後に統一重工業という名称となるが2005年にはS&Tダイナミクス社(SNT Dynamics Co. Ltd.)に社名を変更している)[2]が製造したものであった。同銃の性能は、通常の空気銃とはことなり初速度は1000フィート(300m/s)もあることから殺傷能力が非常に高いもので、その破壊力は「……10メートル離れたところで厚さ2センチの板で試射をやった場合に、この鋭和3Bというのは完全に板を貫通します……普通の空気銃の約三倍以上の威力のある銃……」[3]だったのである。


([1]) 「113 山形栄治」『第65回国会 衆議院 地方行政委員会 第19号 昭和46年3月26日 』。

([2]) S&Tダイナミクス社「https://www.hisntd.com/eng/main/main.html』。

([3]) 「199 中路雅弘」『第71回国会 衆議院 内閣委員会 第12号 昭和48年4月5日 』。

ところで当日の論議の中でもう一つ明らかになったことがある。それは空気散弾銃輸入の割り当てを受けた幸世物産についてである。一般的に考えても殺傷能力の高い空気散弾銃を大量に購入する勝共連合という右翼に対して輸入元である幸世物産は、決済を含め何らかの懸念を抱くところである。林百郎も幸世物産の対応に疑問を抱き「……勝共連合の目的、これは警察庁はお調べでしょうか。右翼ですから、どういう目的ですか、言ってください。……」[1]と両者の関係について問いただした。この問いに対して警察庁長官後藤田正晴は「……幸世物産と勝共連合というのはきわめて密接な関係がございます……」と明確にその関係性を肯定している。つまり統一教会、勝共連合、幸世物産は名称が違えども不可分の関係になることを警察庁長官は掴んでいた。

幸世物産の名前が出てきたので、同物産のその後の動向について書き留めておくと、昭和46(1971)年に高麗人参茶及び高麗大理石壺の販売等を業とする「幸世商事株式会社」を分社している。さらに昭和57年になると同社が「株式会社世界のしあわせ」となり「株式会社ハッピーワールド」と名称を変更し韓国にある株式会社一和から高麗人参等を輸入し販売している。いわゆる霊感商法として一大社会問題となる会社なのである[2]

話を空気散弾銃の輸入商社幸世物産に戻す。幸世物産の実態が論議されるのは『第71回国会 衆議院 内閣委員会 第12号 昭和48年4月5日』になってからである。当日、通商産業省重工業局長山形栄治は次のようにその関係を証言している[3]

○山形(栄)政府委員 私のほうの調べでございますと、統一産業といいますのは、幸世物産を名称変更した輸入商でございます。

警察庁刑事局保安部長斎藤一郎は更に具体的な関係に言及している[4]

○斎藤(一)政府委員 ……勝共連合と統一産業との関係は、警察のほうで承知しておりますところによると、勝共連合の会長が統一産業の役員になっておるということがあるので、関係があるというぐあいに私どもは思っております。  それから、いまの銃が七千丁も入っておって射撃場は八つしかないじゃないかという御指摘でございますが、これは統一産業の関係者がこしらえた射撃場は八つでございますが、日本ライフル射撃協会が公認をしておらない別な射撃場も若干ありますから、この八つだけというわけではないと思います……


([1]) 「116 林百郎」『第65回国会 衆議院 地方行政委員会 第19号 昭和46年3月26日』。

([2]) 「170 安藤巖」『第96回国会 衆議院 法務委員会 第14号 昭和57年4月14日』。

([3]) 「180 山形栄治」『第71回国会 衆議院 内閣委員会 第12号 昭和48年4月5日』。

([4]) 同上会議「222 斎藤一郎」。

この答弁で明らかなことは韓国にある「統一産業」が統一教会傘下にあって宗教を後ろ盾に武器も生産し日本に輸出している危険な団体だということを公安当局は把握し注視していた。さらに注目していたのは幸世物産が輸入した空気散弾銃で「……鋭和3Bというのは、この前の浅間山荘の事件で使われた銃……」[1]だったことも明らかにしている。


([1]) 同上会議「223 中路雅弘」。

つまり鋭和3Bは「……栃木県の真岡市で京浜安保共闘の学生が銃砲店を襲いまして、猟銃十丁、空気銃一丁を強奪して、浅間山荘事件の際に使用したという事件が起きております……」[1]だったのである。ところで日本統一教会は、草創期にも世論から非難を浴びる事件を起こしていた。その中心人物に日本統一教会が草創期に活動していた在日韓国人で曹又億万(そうまたおくまん、日本名:大山高誉)という男であった。その曹又億万が「……(昭和)四十六年八月二十七日から四十七年五月二十七日にかけまして八回にわたって石井光治ら三名と共謀し、円表示自己あて小切手二億三千万円を韓国へ法定の除外事由なく携帯輸出した……」[2]外為法違反容疑で指名手配された。しかし、曹又億万は、警察の追及を逃れハワイに逃亡してしまい逮捕もできないという悪質な事件を起こしていた。その曹又億万が違法送金しようとした資金の出所や共犯者について田英夫が取上げている[3]

○田英夫君 ……曹又億万という人物はソウル生まれ、一九〇五年二月二十三日生まれといいますから七十一歳だろうと思いますが、日本には大正十三年に入国をしているという大変古い在日韓国人であるわけですが、この人物の特徴は、統一神霊協会の日本における幹部と見られていて、例の街頭で花を売ったりニンジン茶を売ったりしていたキャラバン部隊のボスである、いま言われた七億円近い金もそうして集めた金だというふうに言われているというか、そういう金のようであります。いま言われた共犯の三人、石井光治、これも統一神霊協会の人間であり、勝共連合の渉外部長という肩書きを持っている。もう一人増田勝というのも統一神霊協会の伝道師、さらに三人目の藤本三雄というのも統一神霊協会の伝道師、こういうことになっておりますから、この事件は統一神霊協会並びに勝共連合と関係があるというふうに考えざるを得ないんですが、この点は警察のお調べでわかっているでしょうか。

曹又億万が違法送金した資金の出所は「……街頭で花を売ったりニンジン茶を売った……」資金だったのだ。その後、曹又億万を除く事件関係者、石井光治、増田勝、藤本三雄は逮捕され裁判に付され、昭和52年1月21日に神戸地裁は判決を出している。この判決文も第80回国会議事録に記載がある[1]。日野市朗は、会議では、神戸地裁の判決を引用して統一産業代表取締役石井光治と統一教会との関係に付いても明らかにしている[2]。 ○日野委員 ……石井(光治)は……昭和46年6月28日より以前から現在に至るまで宗教法人世界基督教統一神霊協会(以下、「統一協会」と略称する。)の信者で同法人の渉外部長の地位にあって財務全般の総括責任者でもあるとともに、政治団体国際勝共連合の会員で、勝共連合では表面上特定の役職についてはいないが、実際の活動面で渉外及び財務関係の責任者として活動し、また、統一協会及び勝共連合の活動資金の収集集団であるいわゆる熱狂グループの収集資金の管理、出納の統括責任者でもあり、更に、昭和45年5月から昭和46年11月10日までと昭和49年5月15日以降現在まで統一産業株式会社(以下、「統一産業」と略称する。)の代表取締役の地位にあり、右代表取締役就任中断の間の昭和46年11月11日から昭和47年12月までの間においても統一産業の取締役会長の地位にあった……


([1]) 「009 柳館栄」『第78回国会 参議院 外務委員会 第4号 昭和51年10月21日』。

([2]) 「131 三谷秀治」『第84回国会 衆議院 地方行政委員会 第22号 昭和53年5月11日』。

([3]) 「010 田英夫」『第84回国会 衆議院 地方行政委員会 第22号 昭和53年5月11日』。

さらに日野は、統一教会と勝共連合及び統一産業に関係に付いても述べている。

……統一協会と勝共連合は、団体としては別個のものではあるが、思想的には相連結するところがあって、統一協会の代表役員(会長)である久保木修巳が、同時に勝共連合の会長(政治資金規正法による届出上の代表者は梶栗玄太郎になっているが、実際上、同人は事務総長の職にとどまる。)の地位に就き、前記のように被告人石井が統一協会と勝共連合の渉外、財務の職責を兼ねて担当し、他の被告人等も両組織に属しているほか、両者間に会員、賛同者の共通する者が多く、以上の点で、統一協会と勝共連合は組織上も関連するところがある……次に、前記熱狂グループは、統一協会の信者、賛同者や勝共連合の会員、賛同者等において一〇年以上もの以前から統一協会や勝共連合の伝道、活動資金の収集を目的に全国各地で花売り、人参茶の販売、資金カンパ等の活動をしてきた者等の集団であって、全国各地の熱狂グループの収集した右資金は、すべて被告人石井のもとに集められ、被告人石井の管理のもとで勝共連合の活動資金や統一協会関係の活動資金に使用されてきたこと、そこで、少くとも右のような熱狂グループの資金収集活動及びその収集資金の活用を見る限りにおいては、統一協会と勝共連合の間に資金面の関連も否定できない……統一産業、幸世商事、幸世自動車及び幸世不動産は、もとより法的には統一協会と別個の法人ではあるがいずれも統一協会の信者等で組織され、経営されている会社であって、統一協会から出資や事業資金の貸付を受け、他方統一協会の信者たる右各会社の役員や、従業員等はその報酬、給料の殆んどを統一協会に献金しており、また、右熱狂グループとの関係では、その収集資金の一部が右各会社の事業費に流用されている事実もあり、就中、幸世商事は前記の熱狂グループの販売する人参茶の韓国からの輸入にも当っているのであって、少くとも以上の限りでは、右各会社と統一協会との間にも人的及び金銭的な関連のあることが認められる……

 日野が引用した神戸地裁の宣言文では、統一産業、幸世商事、幸世自動車及び幸世不動産が統一教会の国内関係組織であるとしている。つまり法人名は違っていても、役員から従業員まですべて統一教会信者により運営されているだけではなく、会社として必要な資金管理や労務管理もルーズであって、まともな会社ではなかった。関連会社の実態を踏まえたうえで、日野は、統一教会と勝共連合の本質について次のように求めている。統一教会は、宗教法人を隠れみのとして「……募金、物品販売、そのほかいろんな会社を通しての利益」つまり献金をするための商売であり「……これを韓国側の文鮮明を頂点とするそれらの組織に貢いでいる……これが国際的にも文鮮明の活動を支えている資金源になっている……」、資金ロンダリングの会社だと結論付けている。

ところで起訴された三人のその後であるが石井光治は日本統一教会の第6代会長、増田勝は文鮮明が戦前日本で学んだのが早稲田高等工学校であったことから早稲田大学を中心に原理運動の指導者となっている。両者とも事件を悔い改めることもなく、その後も統一教会の発展に尽力していた。それと問題の曹又億万であるが、統一教会の内部では現代でも「日本統一運動の礎となられた方達 ・桜井節雄第5代会長 ・石井光治第6代会長 ・梶栗玄太郎第12代会長 ・大山高誉様43双家庭」として丁重にまつられている[1]。つまり日本の司法から逃げ回った人物が、出世し敬われる組織が統一教会なのである。


二、朝日新聞神戸支局襲撃事件

ところで、空気散弾銃「鋭和3B」のなかに所在不明のものが多数あることは既に見てきた。その行方不明の鋭和3Bについて議論となったのは昭和53(1978)年5月開催の地方行政委員会の中であった[1]。当日、質問に立った三谷秀治は鋭和3Bに関する銃の性能と輸入総数などに付いて政府に確認をもとめている[2]


([1]) 『第84回国会 衆議院 地方行政委員会 第22号 昭和53年5月11日』。

([2]) 同上会議「150 三谷秀治」。

○三谷委員 この鋭和3Bというのは、日本ライフル射撃協会では使用禁止しておる危険品として問題になっております。これが危険品と見られておりますのは……空気銃としては非常に強力である。10メトルの範囲で撃ちまして1.6ミリの鉄板を撃ち抜いてしまう……あるいは、この空気銃は単発でないのですね、50発ぐらい連発ができる。機関銃みたいなものですね。そういう性能を持っている。しかもこれは空気の圧力で発射するわけでありますから、最終になってくると圧力が鈍ってきて弾がだんごになってしまう、そして暴発する危険がある。こういうことがいろいろ調査によりまして明らかになって、ライフル協会がこれは使用をすべきではない、……これが70年から76年にかけまして2万1636挺韓国から輸入されておりますが、これは76(注:昭和51)年度まででございますから、もっと近い統計でいきますとどれくらいの危険空気銃が入っておるのか……

統一産業製は、自社製造の空気銃を昭和51(1976)年までに2万1636挺を日本に輸出していたのである。数量もさることながら、その行方であるが警察庁刑事局保安部長森永正比古は「……空気銃全体は五二年末現在で10万9295丁になっておりますが、その内訳については明らかでございません……」と所在を確認できない空気銃が多数あることを認めているものの、日本に入ってきた鋭和3Bのうち何挺が不明かは明らかにしていない。正確な答えを持たない政府に対しして、三谷は不明な鋭和3B数を明らかにしている[1]

○三谷委員 昨年の衆議院の法務委員会の審議を見ますと、そのとき警察庁として鋭和3Bについて所持許可されたのは7704丁となっております。残り約1万4000丁につきましては所在がわかっておりません。統一教会で保管されておるのか、あるいはその販売の方法などから見ましてひそかに無許可で販売、所持されておるのか、まだ不明であります。つまり勝共連合が幸世物産を通じて輸入した空気銃散弾「鋭和3B」は約1万4000余挺が所持者不明であった。その後、政府はこの答弁以降に不明な空気銃数が減少したという報告は行っていない。つまりそのまま放置となっていた。数多くの不明な空気銃があるということは、治安を預かる警察からすると、凶器として行方の分からない銃を使用した犯罪が起きることを懸念していたはずである。


([1]) 「合同追慕礼拝」https://slidesplayer.net/slide/14302786/(2022年9月10日閲覧)。

([1]) 『第84回国会 衆議院 地方行政委員会 第22号 昭和53年5月11日』。

([1]) 同上会議「150 三谷秀治」。([1]) 同上会議「153 森永正比古」。


ところで過去に凶器として散弾銃を使用した重大事件があった。それは、昭和62(1987)年5月3日、朝日新聞阪神支局襲撃事件である。事件は『赤報隊』を名乗る団体の犯行であり、凶器は散弾銃と断定されている。問題の赤報隊に付いては、事件直後の昭和62(1987)年開催第108回国会で警察庁刑事局捜査第一課長小杉修二が同隊に対する捜査状況を報告している[1]

○説明員(小杉修二君) お尋ねの事件につきましては、内容については御案内のとおりでありますが、警察といたしましては当日直ちに百十名の態勢の捜査本部を設けまして、主な捜査方針といたしましてはもちろん地取り捜査の徹底あるいは鑑定、鑑識資料に基づく捜査、それから動機面の捜査、さらには現場を中心とした地取り捜査の徹底、こういうことを掲げまして所要の捜査を進めてまいったのでありますけれども、五月の六日に至りまして、これも御案内かと思うわけでありますが、日本民族独立義勇軍別動赤報隊なる名義の挑戦状ともあるいは声明文とも受けとめられるような文書が一部報道機関に送達をされました。したがいまして、改めて捜査態勢を強化いたしまして、刑事、警備部門両部門によるところの合同捜査を進めているところであります。おっしゃられるように、本件につきましては、社会的な重大性また悪質性にかんがみまして、地元兵庫県警はもちろんのこと、全国警察の所要な捜査力を結集いたしまして、事案の早期解明を図ってまいる所存でございます。

実は、朝日新聞阪神支局襲撃事件に先立つ同年一月二四日にも、同じく朝日新聞それも東京本社が散弾銃を撃ち込まれていた。両事件とも被害者は朝日新聞であり、使用凶器は散弾銃という共通点がある。

そして「鋭和3B」1万4000余挺が所在不明であった。一般的に考えて統一教会及び勝共連合が殺傷能力の高い空気散弾銃を韓国から大量に輸入していることを考えると「鋭和3B」は捜査の対象になったはずである。加えて、この時期、被害者の朝日新聞は、厳しく統一教会を弾劾し追及していたことを考え合わせるならば、犯行動機が統一教会及び勝共連合にあるとみておかしくない。つまいり朝日事件神戸支局襲撃事件の被疑者であってもおかしくない。ところが同事件は、その後、捜査に進展はなく平成14(2002)年に時効が成立してしまった。

この迷宮入りした事件に関して『朝日新聞を襲うようになったのは文鮮明の指示による』と主張するブログがある[1]。同ブログでは、統一教会が日本に輸出した「鋭和3B」が朝日新聞社襲撃した凶器であると断定している。さらに同ブログでは、凶器の特定とともに犯行動機について文鮮明の講話集『御言選集』なる書物から引用し説明している。しかし、多くのブログの中にはインターネットの匿名性を利用して虚偽の情報を流布する場合が多く、その取扱いは十分な注意を要する。この点を踏まえたうえで本稿は、同ブログが情報の根拠を開示していることから精査するに値すると考えた。


([1]) 「朝日新聞襲撃事件(1987年)と同時期に文教祖は朝日新聞を攻撃するように幹部に指示していた」『ちゃぬの裏韓国日記』https://ameblo.jp/chanu1/entry-12195140161.html(2022年9月1日閲覧)。


ところで『御言選集』なる書物であるが国会図書館には本宮隆久『御言選集』[1]は存在するが同一のものであるかは判断が付かない。また同ブログが引用している『御言選集』第一〇九巻はいまだ出版に至ってないようである。そのため文鮮明の講演内容を出典から確認する作業が終了していないことを断っておく。

早速、同ブログが主張する内容を確認する。最初は、統一教会が「鋭和3B」を日本に輸出した理由についてである。

『さてこのように、共産党の組織を私はよく知っており、彼らのこれまでの謀略がどのようなものなのかをよく知っており、暴力行為がどのようなものなのかをよく知っているので、しかたなく私は宗教指導者として日本に三八ヶ所の銃砲店を作りました。それを理解できますか? 猟銃(散弾銃)、私たちの統一産業で作るB3散弾銃を知っていますよね? この散弾銃5万丁を日本に輸出しました。訓練をしろ!それで訓練することによって、散弾銃を…。ですから指導者を中心として射撃大会を開いて若者たちを共産党とぶつかるような…。 (中略)こうしながら万一…。銃砲、銃を、猟銃(散弾銃)のようなもの、全国38ヶ所の銃砲店で約20万丁以上の銃を一時に集めることができる、このようなことをしています…。』

(御言選集109巻「今後の韓国が進むべき道」1980年11月1日 韓国・勝共研修院(利川))

 この文面は、文鮮明が1980(昭和55)年11月1日に聴取者(おそらく勝共連合会員)を研修所に集めて講話を行ったときのものと考えられる。そこで講演で文鮮明は、5万挺の散弾銃「鋭和3B」を日本に輸出したのは勝共連合が20万挺の銃で武装して共産党と対峙するため宗教の一環として実行していた。そのため全国に38軒の銃砲店を設置し散弾銃を配備してきたというのである。されに、射撃訓練ができるよう全国に8か所に射撃場まで設置していた[2]。現在、自衛隊の定員が約二四万人でその充足率が九割程度であることを考えると、その規模の大きさがうかがえる。文鮮明の言葉通りならば、理由はともあれ統一教会の民兵を使って反乱を起こす準備をしていたとみてもおかしくない発言である。にわかには信じられない話ではあるが銃の輸入については国会議事録にもあることから信憑性のある話ではある。

ところで文鮮明が「共産党」と「武装」という点にこだわった理由がある。それは、日本共産党が過去に武装闘争を繰り広げた経緯があったからである。昭和26(1951)年に日本共産党は策定した新しい要綱に従い、毛沢東の戦略をまねて日本各地で火炎瓶を用いた武装闘争を繰り広げた。

この共産党による武装蜂起の件は昭和32(1957)年の国会議事録にもある[1]。当時、答弁に立ったのは警察庁警備部長山口喜雄であった。少々長くなるがどう答弁をそのまま引用する。


([1]) 『御言選集 1』Eternal Life Church(2021年9月)。

([1]) 「206 斎藤一郎」『第71回国会 衆議院 内閣委員会 第12号 昭和48年4月5日』。([1]) 「064 山口喜雄」『第26回国会 参議院 地方行政委員会 第12号 昭和32年3月22日 』。

○政府委員(山口喜雄君) 菅生村が、御承知のように山村地帯と言いますか、そういう地帯で、非常に保守的な色彩が濃いところであるということはそうでございましょう。しかし当時の党のや

り方は、そういう農山村にゲリラの拠点を作るということを一つの大きな方針にして、全国各地にそういうものを設けたのであります。たとえば東京都下でございますと、小河内の工作隊というのは事件も起しておりますし、有名な活動をしたのであります。それから神奈川県で言いますと、津久井の山とか、当時の東芝のレッド・パージを受けました者があすここにもりまして、そうして要するに山の中のそういういなかに革命のときのバックになる拠点を作る、それを解放地区と、こう言っているのです。そういうことでやっておったのです。それで菅生村も、これは上地の党員ではなくて、近辺から優秀な党員を送り込んで、あすここに中核自衛隊を作ってそうして活動をしておったのであります。むしろ当時の県の警察としましては、党の活動としましては、もちろん大分市等も相当やりましたが、この山村工作隊と言いますか、解放地区における中核自衛隊の活躍というものを非常に重要視しておったということは、これは間違いございません。従って一般の空気がそういう保守的なところであるということは、これはお話の通りだと思いますけれども、当時の党の方針というものは、そういうところに解放拠点を作る、要するに革命のときのバックになるヒンター・ランド作る、ちょうど中共の遊撃戦術を当時取り入れてやっておった。そういうやり方をやっておったということを御了承願いたいと思います。それから戸高君が教唆をしたというようなお話をされたのでありますが、これは公判廷で戸高君が明らかにすると思いますから、私からいろいろ申し上げることは差し控えるのが当然だと思います。ただ、この点は一つ御了承願いたい。と言いますのは、党員になるには非常に厳格な、何と言いますか、テストをする、しかも党員になりましても六カ月間は党員候補なんですね。そして当時の軍事組織というものは、いわゆる上命下従ということで、上の命令には一方的に従わなければならない厳格な規律を当時党は持っておった。これは潜入しましたのが三月の終りか四月の初めだと思いますが、二カ月足らずの者がその党内において主導権を持っていろいろなことを計画し、引っぱって行くということは、これは党の実情を知っておりますれば、そういうことは私どもとしてはもう考えられない。しかし当時、戸高君がどういうような行動をしたかは、これは公判廷で本人が明らかにすると思います。なお一点、防止しなかったではないかという点につきましては、これは確かにそういう事実があることを私聞いております。というのは、あれはもっと早く行われるのを、あすこまで延ばしてきたというようなことを聞いております。しかしこれも公判廷で小林君あるいは戸高君が明らかにするだろうと思います。ただ、ここで申し上げたいのは、党のあの軍事組織のもとにおいて、入って一カ月や二カ月足らずの者が党内をリードして行く、あるいは何か計画をしてみんなを引っぱって行くというようなことは、これはとうてい当時の党内の事情としては考えられないところではないか、私はかように考えております。

この共産党による武装闘争は後々まで日本政府の治安対策に大きな影響を及ぼすことになった。これをうかがわせる発言として昭和45年当時防衛庁長官であった中曽根康弘が次のように答弁をしている[1]


([1]) 「078 中曽根康弘」『第63回国会 参議院 内閣委員会 第17号 昭和45年5月12日』。

○国務大臣(中曽根康弘君) 前に、これはマッカーサーの占領中、その大もとでありました、山村工作隊とか、あるいは中核自衛隊とか、武装蜂起だとか、共産党の前のテーゼのようなものがありました。ああいうことが実際に行なわれて、しかも外国との関係があれば、これはやはり間接侵略の萌芽であるのではないかと思います。そういう過去の経験等も考えてみまして将来を考える場合に、そういう可能性が絶無とは言えない。また、政治が失敗した場合に、国民の不安が非常に増大し、そうしてそれが国内だけの問題にとどまっておればいいのでありますけれども、外国との牽連関係が出てきて、そういうような不安や暴動、騒擾、そういうものが醸成されるということもないとは言えない。そういう問題も頭の中に置いて、直接侵略、間接侵略、そういうことばが挿入してあるのだろうと私は思います。

中曽根は、共産党が再度武装闘争に踏み出した場合には、自衛隊法第78条及び第81条によって自衛隊を治安出動させて治安を回復させたのちに、内乱罪で処罰することを考えていた。つまり当時の政府は共産党の動向により自衛隊の治安出動を念頭に置いていたのだ。中曽根の発言は防衛庁長官として当然の判断であろう。ところが統一教会は、自衛隊を差し置いて、共産党に武力で遊撃しようと考え準備を進めていた。理由はともあれ、もしも統一教会が民兵を動かしたならばやはり統一教会に対しても自衛隊が治安出動することになったはずである。

三、文鮮明が銃製造に手を染めた理由と朝日新聞襲撃

更にブログは続く。文鮮明が統一産業で銃を製造していた理由に付いても述べている。

『そのため統一産業を中心として、武器を作るのです、どんな武器でも。悪魔が武器を持ってくれば、私は武器で防御します。統一教会の信徒3人以上を殺してみろというのです。そんな時は命令します。

日本の警視庁に私が脅迫したことがそれなのです。彼らは共産党と組んで統一教会が発展できないように脅迫するので銃砲店を38ヶ所を作りました。それでB3銃を5万丁を積み上げて「もし共産党が私たちの血を流すの日には、文総裁が命令を下せば、お前の事務所のどこでも…。空気銃(エアガン)数10万丁が38ヶ所の銃砲店にある。一斉に出れば、日本の警察が問題ではない。命令を私が下す番だ。雷が落ちるのだ。手を出してみろ。血を流してみろ」と脅迫したのです。脅迫の反対は何ですか? 真迫です。 (笑)事実そうしたのです。』
(御言選集196巻「私の国の統一」1990年1月1日 韓国・本部教会)

此の一節は、1990(平成2年)年のものである。この演説からわかることとして文鮮明は、1980(昭和55)年ころ文鮮明の民兵計画は着実に進んでいて、銃は予定の20万挺にたいして既に10万挺を貯蔵していた。そして統一教会は敵対する勢力の「……事務所のどこでも……」制裁を加える準備ができていると吐露している。さらに付け加えて「……事実そうしたのです……」と白状している。無論、一連の指示を出したのは文鮮明である。同ブログは、朝日新聞による霊感商法等一連の反統一教会キャンペーンに対して文鮮明が武力で報復を指示したと解釈しているのだ。 次いで同ブログは、統一教会が朝日新聞に対する報復した事例を昭和60(1985)年から昭和62(1987)年間の年表として掲げている。尚、ブログが掲げる年表の全時期を通して内閣総理大臣であったのは日本共産党が武装蜂起した場合には自衛隊を治安出動させると胸を張って答弁していた中曽根康弘そのひとである。本稿では、同ブログが作成した年表を、そのまま複写した。また、根拠とした資料名は筆者が付加しておいた。

1985年4月 

朝日ジャーナルが統一教会の原理運動批判記事掲載時、朝日新聞東京本社に1週間で4万6000本の抗議電話がかかり回線がパンク

1986年12月5日 

朝日ジャーナルが霊感商法追及キャンペーンを開始。朝日新聞の藤森研編集委員(53)の自宅に嫌がらせ電話が1日百数十回

1987年1月24日 

朝日新聞東京本社銃撃事件

1987年4月17日

文教祖が朝日新聞の合同結婚式ネガティブ報道に激怒の説教

(筆者追記:御言選集162巻「我が民族の行く 道」1987年4月17日 韓国・本部教会)

1987年4月18日

文教祖が朝日新聞の霊感商法ネガティブ報道に激怒の説教

図3.『朝日新聞に届いた脅迫状』https://ameblo.jp/chanu1/entry-12195140161.html。(2022年9月4日閲覧)。

(筆者追記:御言選集163巻「南北統一運動について」1987年4月18日 韓国・漢南洞公館)

1987年5月3日 

朝日新聞阪神支局襲撃事件(記者死亡)

1987年5月5日 

朝日新聞東京本社に脅迫状

(筆者追記:文面「統一教会の悪口をいう奴は皆殺しだ」  

『図四. 朝日新聞に届いた脅迫状』参照)。

1987年5月30日 

文教祖が朝日新聞を攻撃しろと幹部に指示したと説教

(筆者追記:御言選集166巻「統一」1987年5月30日 韓国・リトルエンジェルス芸術会館)

1987年9月24日 

朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件

となっている。

さらにブログは続いている。さすがに統一教会に公安の手が伸びたため武闘路線を自粛するようになった様である。翌年、昭和63(1988)年になると文鮮明による日本国内での活動に大きな変化が現れた。その変化について同ブログは「(御言選集173巻「太平洋時代の旗手」1988年2月18日 韓国・漢南洞公館)」を引用して説明している。

昨年(1987年)の選挙当時、日本のお金で60億円以上使いました(※政治家への選挙資金・人員提供=賄賂)。お金を使わなければならないというのです。時が尋常ではありません。国会の局面をつかまなければならないと言って、国会に新しく出てきた人たち(※新人候補)を、私たちが…。統一教会は怖いのです。 (選挙応援の信者が)40人いれば一人当選させることができます。これらの人たち(選挙応援の信者)は、いわば訓練された精鋭部隊です。一人が何軒まで訪問をするかというと最低が300軒です。最高訪問記録が1300軒です。訓練されなければなりません。』

図4.『勝共推進議員名簿』(「思想新聞」90年3月25日号)https://ameblo.jp/minamihachimantainoyeti/entry-12754354346.html。(2022年9月6日閲覧)。

ここで出てくる『昨年(筆者追記:1987年)の選挙当時』とは、昭和62(1987)年7月6日に行われた第三八回衆議院議員総選挙と第一四回参議院議員通常選挙及び同年10月20日に行われた中曽根康弘の任期満了により実施された自由民主党(以後は自民党)総裁選挙のことであろう。その時、ポスト中曽根を狙っていたのは党総務会長の安倍晋太郎、党幹事長の竹下登、大蔵大臣の宮澤喜一の三氏であった。文鮮明によれば、支援する候補者一人に40人の訓練された選挙スタッフを付けることで国会議員一名を誕生させることができるとしている。これは、それまで文鮮明が推進していた20万民兵計画を転換し、政府中枢を選挙で支配する方向に転換したものと考えられる。つまり非合法活動から合法活動に路線転換したのだ。この選挙の時に、統一教会は、支援する候補に送り込む秘書を教育する設備まで準備したとされている。

 また同ブログは、文鮮明が国政選挙に選挙スタッフを送るという手法の詳細とその目的に付いて『愛国運動の基地 1986年10月9日 韓国・漢南洞公館』を引用して説明している[1]


『・・・勝共連合議員だとか、統一教会を代弁する議員だとかいう看板を受けなさいというのです。今回、サインしろというのです。今回、サインしなければ、私は後押し(選挙支援・秘書支援等)しないというのです。
・・・そこで今回、日本の国会議員を中心としてこれ全部・・・。今回の選挙で私のおかげで当選した人が多いのです。

・・・昔はお前達(国会議員)が好き勝手に言っても私たち(統一教会)は協力しましたが、これからは私たち(統一教会)が必要な要件をしっかりやれ!(という時がきました)

そのため、三つの条件を(要求する)…。


([1]) 文教祖が日本の国会議員に統一教会信者の秘書を送り込んだ理由」『ちゃぬの裏韓国日記』https://ameblo.jp/chanu1/entry-12050744081.html(2022年9月04日閲覧)。

第1条は「私は勝共連合勝共議員になることを宣誓する」、
第2条は「私は統一教会を絶対的に支持する」、                        第3条は「統一思想は人類を解放することができる思想であることを受け入れる」

というものです。三大条件ですよね。ここにサインしろというのです。そして選挙してすぐ140人の議員の名前を書いて、全員勝共連合が後援したと広告を出してしまったのです。このやろうたちめ、どの口でいうのか…。そんな広告などしなかったと言ってみろ、こいつらめ! ぶん殴るというのです。世界日報に全部掲載するというのです。全部発表したら自分たちは身を引くことができますか? (サインを)しないというのなら見ていろ! 反対でもしてみろ! 青い顔をして自分たちがしたサインが全て(こちらに)あるのに・・・。条件として勝共議員になると宣誓したのに、その誓約した人が今どこにいるのか? 身動きできないでしょ? 

このやろう、発表してしまうのです。それ(サインした勝共議員名簿)を世界的に利用するのです。ここにそのサインしたものを持って来ているか? うん? 勝共連合にあるか? (「はい、あります」)

私はそんなに馬鹿ではないのです。先生がすることは抜け目がないというのです。』

つまり文鮮明は、国会議員の選挙を支援する代わりに「宣誓書」を提出させ、統一教会を裏切った場合には公表すると恫喝していたのだ。そして勝共連合が発行する「思想新聞」に、文鮮明の求めに応じた自民党議員数は150名の名簿を公開してしまった。名簿に記載されている議員名を精査すると、後に、自民党を離党した議員も含まれている。その例として「郵政民営化」にいや気がさして離党した議員が含まれていることである。

郵政民営化を進めたのは小泉政権であった。小泉は、民営化という響きの良い言葉で、郵便貯金を担保に建設国債を発行し治山治水などインフラ整備に当て高度成長を支えてきた資金を遮断してしまった。その結果、日本経済は経済成長ができない体質となってしまった。その後の日本経済の凋落は目覆うばかりであることを考えると如何に愚かな経済政策であったのかは明らかであろう。この民営化政策が、日本の経済体質を変形させたと同様に、自民党の体質も変形することになった。それは郵政民営化で自民党を離党する議員がでたことで自民党内部の自己浄化作用が失われ、代わりに統一教会の選挙支援を受けた議員が増える結果となってしまった。したがって名簿に記載されている議員すべてが統一教会と関係しているわけではないことは断っておく。

自民党と統一教会及び岸の影響力を示す事例をもう一つ示しておく。昭和49(1974)年5月7日、岸信介が名誉実行委員長を務める統一教会主催の「希望の日晩餐会」が開催された。当日、会場となった帝国ホテルには1700名が出席しているが、その中には40人もの自民党国会議員の姿があった。中でも大蔵大臣であった福田赳夫の祝辞は異彩を放っていた。福田の祝辞は、国会議事録にも記載がある[1]


([1]) 「015 横山利秋」『第80回国会 衆議院(法務委員会)第7号(昭和52年4月1日)』。

○横山委員 ……これは、その当時の思想新聞であります。この思想新聞に、福田当時の大蔵大臣のメッセージ、あいさつの文章が出ておるわけであります。  一応、朗読いたします。タイトルは、「文師はアジアの偉大な指導者 大蔵大臣 福田赳夫氏」となっております。文章どおり読みます。アジアに偉大な指導者あらわれた。その名は文鮮明師である。今晩は文師にお会いでき、実に気持がいい、晴々しい気持だ。人間が人間らしいということは、お互いに助け合うところにある。そこに価値があると思う。文先生はそれを明確に示して下さった。今日の世相をみるとエゴがはびこっているが、神から授かった自然な情操を取り戻さないと、いい日本にはならない。この尊いものを取り戻すことが、政治家の使命だと感じている。自己の政治原理が整理された気持だ。(当日の挨拶から)」となっています。

その後、福田は、昭和51(1976)年に行われた自民党総裁選挙で、福田以外の立候補者がいないため両院議員総会の話合いにより過半数をわずか1票上回る得票で首班指名された。そして同年12月に福田内閣を発足させている。議事録から福田は、熱烈な統一教会支援者であると映るが、おそらくは違う。福田が総理大臣在住中におきたダッカ日航機ハイジャック事件(1977年9月28)では、統一教会が聞いたら目をむくような、超法規的措置として拘留中の日本赤軍関係者の解放と多額の逃亡資金を提供すという決断をした首相である。また、福田が在任中の昭和53(1978)年8月12日には「日中平和友好条約」を締結している。つまり福田は、総裁選を勝ち抜くため岸の派閥を引き継いで政権に付くため、岸の統一教会に跪くことで国会議員票を集めていたとみるいがいにない。

ブログは更に続く。統一教会系列の国会議員数に増やす手法は、さらに洗練されていった。その様子を『「文鮮明先生み言葉選集」192巻より 1989年7月4日 韓国・一和修練院』から示している。

『(一番目は)国会議員との関係強化です。そのようにして国会内に(統一)教会を作るのです。国会内の教会ですよ。衆議員教会・・・。国会議員たちを120人以上束ねことのできる名簿を作成するように言っただろう? 今からそのようにして、それ(日本の国会議員)が教会の組織になるようにするのです。そこで原理を教育するだとか・・・すべてのことが可能になるのです。

二番目は、秘書です、秘書。(統一教会から)国会議員の秘書を排出するのです。

三番目は、国会内の組織体制を形成するのです。

四番目は、党の収拾と連合。

五番目、行動結束と挙国。

それで自民党の安倍派などを中心にして、(勝共の)久保木を中心として、超党派的に、その議員を結成して、その(勝共議員の)数を徐々に増やして行かなければならないのです。わかりますか?』

 文鮮明は、120人以上の統一教会の息のかかった国会議員で国会内に統一教会を作ることをめざし、その支援策として秘書を送り込んで選挙戦を戦い抜く活動を開始した。その体制は、国会議員側は安倍派(安倍晋太郎)が担当し、選挙を支援する教会側は初代会長久保木修己が就任して動き出すことになった。つまり統一教会が行う国会対策の中心にいたのは初代会長久保木修己という最高幹部が直々に重要な宗教活動としておこなっていた。その後も、統一教会会長が国会対策の中心にいることに変わりはなかったであろう。この文鮮明の戦術は巧妙である。国会議員を選出する選挙に統一教会関係者を立候補させても、信者は僅かであることから得票数は知れたもので、とても当選させることはできない。そこで編み出した手法が、候補者には「宣誓書」で抑えておいて、統一教会で育成したスタッフが選挙運動を取り仕切って選挙戦を勝ち抜くといものであった。つまり候補者は「宣誓書」を統一教会に提出することで、国会議員としての資質や政治理念等とは無関係な一般受けする泡まつ候補で良かったのである。そもそも候補者が「宣誓書」を提出したことで、候補者が選挙民に示した政治理念とは統一教会の教義となってしまう。これは選挙民に対する裏切りであろう。

ところで「御言選集196巻「私の国の統一」1990年1月1日 韓国・本部教会」のなかで、聞き捨てならない言葉がある。文鮮明は、日本の警察が「……共産党と組んで統一教会が発展できないように脅迫するので……」日本の警察を脅迫したというのである。逆に言えば警察は文鮮明の私兵計画をつかんでいたという証拠でもある。そのため武力路線を突き進む文鮮明に対して、警察は銃の取締りを強化すると共にその動向を厳重に監視していた。さらに言うならば、日本の警察は、統一教会に何らかの警告を発していたのであろう。それが文鮮明には、警察の脅迫と映ったのだ。つまり警察は懸命に統一教会の暴走を抑えようと努力をしていた。強がりを口にする文鮮明の方がむしろ追い詰められていたと考えられる。

結果論からいうと警察と統一教会の対立は、警察は統一教会の動きを厳しく取締りしまることはなかった。警察は統一教会に折れたことを示唆している。では何故に日本の警察が文鮮明に屈することになったのか。日本の警察は、統一教会に対する捜査という政治的な問題に対して警察独自の判断で捜査を進めたり止めたりすることはできない。したがって政府中枢の指示なくして警察が単独で統一教会と妥協することは考えられない。つまり日本政府の最高責任者である内閣総理大臣の了解がなければできることではない。文鮮明は、警察を抑え込むために内閣に対して政治的な影響力を行使して、警察の追求を逃れることに成功したということになる。

では誰が警察に捜査中止を指示したかであるが、消去法で考えると朝日新聞襲撃事件は昭和62(1987)年5月3日で、文鮮明の後ろ盾岸信介が亡くなったのは昭和62(1987)年8月であったことから、警察に捜査中止を命令できるのは第71、72、73代総理大臣(昭和57年11月27日から昭和62年11月6日まで)を務めた中曽根康弘しかいないことになる。

ブログが明らかにしている統一教会の実態は、国会内に120人以上の議員を有する統一教会を設立し国会を占拠することが最終目標であった。俄かには信じがたいものであるが、国会議事録を検索した限りでは、非常に信憑性は高いものである。今後は、文鮮明の演説集『御言選集』を入手し徹底的に検証してみることで、更に具体的な真実が浮かび上がってくるはずである。

第二項 検索キーワード(勝共連合)

一、勝共連合の活動目的

統一教会を語るうえで欠かせないのが勝共連合である。勝共連合の活動開始について昭和48年開催の第71回国会会議議事録[1]で確認することができる。 当日の質問者米原昶は、昭和48(1973)年8月8日に韓国中央情報部(KCIA)が 金大中を拉致するという事件は韓国による主権侵害ではないかとするなかで、韓国中央情報部と深い関係のある勝共連合の名前が出てきた[1]


([1]) 同上会議「046 米原昶」。

○米原昶君 ……韓国元大統領候補金大中氏の暴力的拉致事件が、朴政権の悪名高い謀略機関KCIAの犯行であることは、国際的にも公然の秘密であります……KCIAは、韓国の中央情報部に関する法律によれば、所在地、定員、予算、決算などを非公開にすることが定められ、国会への資料提出、証言、答弁を拒否することができます。さらに、国家保安法、反共法に規定する反政府的な言動を犯罪として捜査する警察権をも有し、自国内だけではなく、国外においても活動することが規定されております。KCIAは単なる情報機関ではなく、強制捜査権を持っており、日本国内においても主権侵害行為を平然とやってのける謀略諜報機関であります……また、この際、朴政権の暗黒支配をささえるKCIAと車の両輪のごとく活動を続けている国際勝共連合について質問します。  国際勝共連合は、日本名を西川勝と名のる元特務機関員崔翔翼によって韓国より日本へ輸入されたものであります。その活動は、反共デマ宣伝から謀略テロ行為にまで及んでおります……

崔翔翼(日本名:西川勝)が文鮮明氏の指令を受けて日本に密入国したのは昭和33(1958)年であった。崔翔翼のその後であるが、日本国内で積極的に教団設立に向けて活動を行った。その結果、立正佼成会庭野日敬会長の秘書を務めていた久保木修己を昭和37(1962)年に立正佼成会から退会させて「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)に入教させることに成功している[1]。その久保木は、わずか4年後の昭和41(1966)年に初代統一教会会長に就任した。その下部組織である勝共連合の設立は、統一教会教祖の文鮮明が朴正煕政権時代の大韓民国中央情報部(KCIA)の指示を受けて昭和48(1973)年1月13日に韓国で設立され同年4月には日本にも支部を設置した[2]

勝共連合設立した経緯についても田英夫が昭和51年開催第78回国会で政府に事実確認を求めた記録がある[3]

○田英夫君……たとえばこのフレーザー委員会における証言の一つ、元在米韓国大使館付武官であった……朴普煕……と非常に親交のあったというロバート・ロランドというユナイテッド航空の人物の証言の中に、一九六七年七月に文鮮明という——文鮮明というのは御存じのとおり統一神霊協会の教祖と称しておる男です。現在アメリカにおりますが、この文鮮明が世界反共連合を設立するために日本の山中湖畔で児玉譽士夫、笹川良一と会合をしたということをこのロランド氏は証言をしています。そうしてこの証言によると、この会合の結果、世界反共連合というものが一九六八年の一月に韓国に本部を持って発足をし、同年、六八年四月には日本支部が設立され岸信介氏がこれに加わった……


([1]) 村上重良『世界宗教事典』講談(1987年12月)。

([2]) 社会科学辞典編集委員会編『新版 社会科学辞典』新日本出版社(1978年)。

([3]) 「042 田英夫」『第78回国会 参議院 外務委員会 第4号 昭和51年10月21日』。

田英夫によれば、文鮮明は1967(昭和42)年に日本に世界反共連合を設立するため山中湖(注:

山梨県本栖湖畔とする説もあるが本論では議事録のままとした)[1]で児玉譽士夫、笹川良一、岸信介と会合した。この会合後、勝共連合は、政治及び財政的な支援を受けて日本国内に勝共連合を設立することができた。田が統一教会と岸信介,笹川良一,児玉誉士夫が深い関係があるとした根拠は、1977(昭和52)年アメリカ下院で開かれた「国際関係委員会国際機構小委員会(通称フレーザー委員会)の報告書から引用してのものであった。その報告書名は「米国における韓国中央情報局の活動(Activities of the Korean Central Intelligence Agency in the US)」である。

 ところで統一教会の別の顔である勝共連合は、その活動目的として「朝鮮半島が突破口に第三次世界大戦が必ずおこらなければならない 」ということと「日本は生活水準を三分の一に減らし、税金を四倍、五倍にしてでも、軍事力を増強してゆかねばならない」を掲げているとされている[2]。日本国民は憲法第13条で幸福追求権を保障されている。ところが久保木は、日本国民が憲法で保障された権利を放棄して増税にあえぎながらでも軍事力増強をおこない戦争のできる国にすべきと扇動し、この命題に従う自民党所属国会議員を増やし自民党の政策として実現しようとしていた。その中心を自民党安倍派(安倍晋太郎)とするように命じたのは教祖の文鮮明である。

この文鮮明は自民党の中に安倍派を中心として統一教会に従う国会議員を増やし国会内に統一教会を造ることを指示したことは既に述べたとおりである。安倍晋太郎は、岳父が岸信介で、義理の叔父は第61、62、63代(昭和42年2月17日から昭和47年7月7日)内閣総理大臣を務めた佐藤栄作である。安倍派となったのは、政界のプリンスと呼ばれ安倍晋太郎を首領とする派閥である。安倍派となったのは昭和62(1987)年に行われた自民党総裁選を期に派閥の領袖に就任してからである。しかし、平成3(1991)年に病死している。安倍の死で文鮮明の野望は、潰えたかに思えた。

平成18(2006)年、安倍晋太郎の次男である晋三が『美しい国へ』[3]を出版した。自民党総裁選挙に出馬するための政策をまとめたものとされている。ところで日本統一教会初代会長久保木修己も『美しい国 日本の使命』[4]とする著書がある。同著書の著者略歴には次のように書かれている。


([1]) 本栖湖会議の会場は、本栖湖畔にある全国モーターボート競走会連合会の水上スポーツセンター会議室で、会議には藤吉男(東京都モーターボート競走会会長、笹川の側近)、白井為雄(日本青年講座事務局長、児玉の側近)、市倉徳3郎(護国団顧問)、山下幸弘(天照義団)、畑時夫(庶民の生活を守る会)らが出席していた(出所:「政義ノート」)。

([2]) 久保木修己遺稿集刊行委員会『美しい国 日本の使命―久保木修己遺稿集』世界日報社(2004年12月1日)。

([3]) 安倍晋三『美しい国へ』文藝春秋 (2006年7月20日)。

([4]) 久保木修己『美しい国 』世界日報社 (2004/12/1)。

久保木/修己
昭和6年(1931)、中国丹東市(旧満州安東市)生まれ。終戦とともに引き揚げ、13歳にして初めて日本の土を踏む。慶応義塾大学在学中に立正佼正会に入会。その後、青年部長、会長秘書として活躍した。昭和37年、世界基督教統一神霊協会に入教。同39年、会長に就任。昭和43年、国際勝共連合を創設し、会長に就任。日本共産党と対決し、WACL(世界反共連盟)世界大会、「救国の予言」講演会などを精力的に展開。また、自主憲法制定・北方領土返還・スパイ防止法制定などの国民運動を推進し、各界有識者から高い評価を得る。日韓安保セミナーを通して韓国との交流を深め、日韓トンネル構想の実現に力を尽くした。平成10年(1998)、享年67歳で永眠(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

この著者紹介で注目すべきは「……自主憲法制定・北方領土返還・スパイ防止法制定…」に尽力した点にある。平成24(2012)年9月26日に安倍晋三は第25代自民党総裁となった。そして同年12月26日には第96代内閣総理大臣に就任している。安倍が進めた政策は、久保木の主張と重複するものばかりなのである。これは、ある意味で当然である。文鮮明は、久保木に自民党安倍派を中心として120名以上の国会議員を当選させ国会内に統一教会を作るように指示していて安倍晋三が総理大臣になるころも進行中だからである。それで久保木が『美しい国』を出版し、安倍晋三が『美しい国へ』を出版したのだ。

ところで安倍と久保木の主張に類似性があることに気付いていた新聞がある。令和4(2022)年8月2日付け東京新聞は「旧統一教会側と自民党、改憲案が一致」 緊急事態条項、家族条項…濃厚な関係が影響?」とする記事を配信した。

安倍晋三元首相銃撃事件を契機に、自民党との深い関係が露呈した世界平和統一家庭連合(旧統一教会)。その旧統一教会の政治部門とされる国際勝共連合(勝共連合)の改憲案と、自民党の改憲草案が、「緊急事態条項」や「家族条項」などで一致していることが、注目を集めている。被害者弁護団から「反社会的勢力」とも指摘される旧統一教会側の主張が、関係の濃い自民党の改憲草案にも反映されていたのか。

東京新聞は、自民党が掲げる憲法改正と統一教会が目指す改正案が似たようなものであることを暴露したものである。例えば、憲法第24条の家族条項には「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」とあるが、統一教会が大々的に実施していた合同結婚式は「神様(文鮮明)が決めた相手と結婚すること」とされている。つまり統一教会は、教義と会わない憲法条文を教義に合うように変更しようとしていたのだ。これに同調したのが、統一教会の選挙支援で当選してきた自民党国会議員だったのだ。

自民党が、改憲が必要とする論拠について、自民党憲法改正実現本部が発行している「日本国憲法改正草案Q&A」で次のように述べている。

現行憲法は、連合国軍の占領下において、同司令部が指示した草案を基に、その了解の範囲において制定されたものです。日本国の主権が制限された中で制定された憲法には、国民の自由な意思が反映されていないと考えます。そして、実際の規定においても、自衛権の否定ともとられかねない9条の規定など、多くの問題を有しています。

自民党の改憲理由は「現行憲法はアメリカによる押し付けである」という理由で改憲論議をすすめてきた。ところが憲法改正論議に統一教会の関与が疑われるようになったことで自民党憲法改正実現本部の改憲論理は「GHQによる憲法介入は排除するが、統一教会が介入する改憲は受け入れる」という滑稽なものとなってしまっている。このような理由をあげるということは、押し付けであるという以外に根拠はないからである。まさか、文鮮明の指示が憲法改正理由であるとは言えないからに他ならない。そのためか自民党の改憲案は、前文を修正することなく条文を部分的に変更し解釈を変えるという姑息なものなのだ。

統一教会による政治介入が予想以上に深刻であることを認識したためか日本政府は、消費者庁が中心になり「霊感商法」の対策に乗り出すことにしている。消費者保護の観点からは、大切なことには間違いない。しかし、統一教問題の本質は民法上の問題ではない。重要なのは統一教会のもう一つの顔である勝共連合を通じて日本の国体をなし崩し的に破壊させようとしていた事であって、それも、現在も継続していることこそが問題なのだ。

二、統一教会に対するフレーザー委員会の結論

田英夫が引用したブレザー委員会報告書には統一教会と国際勝共連合の本質がまとめられている。その同報告書の結論部分が「朝日ジャーナル」[1]に邦訳がある。(筆者は確認がすんでいない。「政義ノート」ホームページ[2]から複写して利用した)。


([1]) 「暴かれた統一教会」『朝日ジャーナル』朝日新聞社(1978年12月22日)。

([2]) 「政義ノート」https://web.archive.org/web/20201105091733/http://poligion.wpblog.jp/archives/5370

(2022年8月31日閲覧)。

文組織についての当小委員会の調査結果は以下のように要約される。

  • 文組織(注:「文鮮明機関」(Moon Organization))が主催する統一教会その他多数の宗教・非宗教団体は、実質的にひとつ国際組織を形成している。この組織は、その関連団体を相互に交流させることができること、および人的・財政資産を国境をこえて、また営利事業と非営利団体の間で、自由に移動することができることに大きく依拠している。
  • 文組織は文鮮明によって描かれた目標の達成を企図しており、文鮮明は、それらの目標追求のために文組織が企てる経済的、政治的、宗教的諸活動にたいして実質的な統制力を握っている。
  • 文組織の目標の中には、教会と国家の分離が廃止され、文鮮明とその信徒によって統治される世界政府の樹立が含まれている。
  • これらの目標追求のために文組織は、成功の度合いまちまちだが、米国や他国の企業および他の非宗教的諸機関に対する運営権の獲得ないし確立を企てるとともに、米国において政治活動を展開してきた。これらの活動の中には、韓国政府を利すため、あるいは米国の外交政策に影響を与えるために企てられたものもある。
  • 文組織は、独自の目標を追求しながら、同時に韓国政府の利益を促進し、時には韓国の政府諸機関や要人と協力して、あるいはその指示を受けてこれを行った。文組織は、いく人かの韓国政府要人と互恵的結びつきを保持していた。
  • 文組織は、表向きは韓米関係推進のための非営利財団としてKCFF(韓国文化自由財団)を設立したが、組織自体と韓国政府の政治的・経済的利益を助長するためにKCFFを利用した。

文組織は、米国の上院議員や下院議員、大統領、その他の著名人の名前を広範に利用して募金活動を行い、文組織自体と韓国政府のための政治的影響力を醸成した。

組織の一企業は、韓国における主要な防衛契約業者であり、M-16型ライフル、対空砲その他の兵器の生産に関与している。

文組織の代理人は、米企業から韓国製のM-16の輸出許可を取りつけようとした。M-16は、米国政府認可の共同生産協定にもとづいて製造されており、米国政府はM-16の生産を韓国政府の独占管理下に置いている。それにもかかわらず文組織の代表が一明らかに韓国政府の代理として一協定延長交渉に現れた。

組織は、教会員の名前で株式を買うのに使う資金の出所と見せかけて、ディプロマット・ナショナル・バンクの過半数の株式を手に入れようと企てた。

文組織は、自らの政治・経済活動を支えるために教会その他の免税団体を利用した。

文組織の目標や活動の多くは合法的、適法的ではあったものの、文組織が米国の税、移民、金融、通貨関係の各法規、外国人代理人登録法、ならびに慈善事業を装った詐欺行為に関する州や地方の法律を計画的に犯していたこと、またこれらの法律違反が俗世界の権力の獲得という文組織の全目標と関係があることを示す証拠があった。

このフレーザー委員会の報告書で特に注目すべきは(3)の「……教会と国家の分離が廃止され……」である。日本の国体である日本国憲法には第20条[1]に「政教分離」を定めている。これを根拠に統一教会は昭和39(1964)年7月15日に宗教法人となった。したがって統一教会は、日本で活動する限り政治と宗教とを分離することが求められるとともに厳守する必要がある。ところが統一教会は宗教法人となった後も、空気銃の輸入や不正送金など様々な社会問題を引き起こしきた。それにも関わらず日本政府は憲法20条で保障されている信教の自由を重視して、重大な社会問題を起こしているにもかかわらず統一教会の規制には及び腰であった。日本政府が及び腰であったのは、文鮮明の脅しに屈したわけではない。憲法重視の姿勢が表れた結果なのである。


([1]) 日本国憲法第20条

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

三、憲法20条と国会記録

ところで前項に出てきた憲法20条は国会で如何なる論争が行われていたのか興味のあるところである。この点について検索してみると昭和45(1970)年1月に始まった第63回国会で論争となっている[1]。論争と発端は創価学会と公明党による言論弾圧事件であった。 事件の概要は、昭和44(1969)年に衆議院選挙が行わる可能性があるなかで起こった。政治評論家の藤原弘達が創価学会と公明党を批判する著書『創価学会を斬る』[1]を出版する計画をたて、事前にポスターの配布がおこなわれたのである。これを創価学会と公明党は、選挙妨害と受取り、藤原の書籍を阻止するために、著者、出版社、取次店、書店等に圧力をかけて妨害したことから社会的な批判が創価学会と公明党を直撃することになった。創価学会と公明党に批判が集中した背景には常軌を逸した選挙運動があった。それは公明党が結党以来、政治と宗教を一体とした政治活動をおこなっていたことである。この点を島田裕巳『創価学会』から見ておく[2]

……1964(昭和39)年に公明政治連盟を改組して誕生した公明党の綱領では、次の項目の実現がうたわれていた。

1、王仏冥合(おうぶつみょうごう)と地球民族主義による世界の恒久平和

2、人間性社会主義による大衆福祉の実現

3、仏法民主主義による大衆政党の建設

4、議会制民主政治の確立

福祉の実現や民主主義の確立という部分は現在の綱領と共通するが、決定的な違いは、結党当初の綱領では、『王仏冥合』や『仏法民主主義』といった仏教的、宗教的なスローガンが鮮明に打ち出されていた点にある。

 王仏冥合とは、政治と宗教の一体化をめざそうとするもので、当時の池田大作会長(現・名誉会長)による結党宣言でも、日蓮の『立正安国論』が引用され、『公明党は、王仏冥合・仏法民主主義を基本理念として、日本の政界を根本的に浄化し、(中略)大衆福祉の実現をはかるものである』と、王仏冥合と仏法民主主義の重要性が明確に説かれていた。

……

公明党の政治活動の目的は、王仏冥合という宗教的なもので、それは、「国立戒壇」の建立ということと深く結びついていた。……国立戒壇の建立とは、創価学会がその設立以来信奉してきた日蓮宗の一派、日蓮正宗の国教化を意味していた。国会で多数派となり、議決によって、国立戒壇の建立をはかろうとしていたのである。……

創価学会と公明党が過激な選挙運動を行って国政選挙に臨んでいたのは国立戒壇を建立することであった。その国立戒壇とは何かといえば、国会議員の決議により国立の宗教施設を作ろうというものである。これが憲法20条で規定している政教分離に違反すると論争になった。

当日の質問者は谷口善太郎であった[3]。この日の谷口と法制局長官の質疑応答は、憲法の核心にせまる非常に重要な部分であることから当時の発言順序に従い列挙してみる。


([1]) 藤原弘達『創価学会を斬る』日新報道(1969年)。

([2]) 島田裕巳『創価学会』新潮社(2004年6月20日)。

([3]) 同上会議「236 谷口善太郎」。

○谷口委員 ……最初に法制局長官にお尋ねいたしますが、憲法二十条では、国民の信仰の自由を保障する問題と同時に、政治と宗教の分離の原則をきびしく規定しておりますが、この原則を規定しました意味をまずお聞きしたいと思います。

谷口の質問に、内閣法制局長官高辻正巳は次のように答えている[1]

○高辻政府委員 きわめて概括的なお尋ねでございますが、一々御説明申し上げるまでもないと思いますけれども、二十条の規定は、信教の自由と同時に、中でも政教分離の原則についてきわめて明確な規定を置いております。すなわち、政教分離の関係についてのお尋ねかと思いますので、その原則についてはきわめて重大な関心をそそいでおる、きわめて厳格な規定を設けておる、これだけ申し上げて、さらにお尋ねに応じてお答えしたいと思います。

高辻は、憲法20条で信仰の自由と政教分離は明確な規定があると返答している。しかし、谷口は憲法で何故に第20条を規定したのかを質問していたため答弁がかみ合わず、再度、高辻が答弁することになった[2]。そして次のように述べている。

○高辻政府委員 信教の自由についての規定は、旧憲法にもございましたわけでありますが、旧憲法当時は、いわゆる神社の関連において政教分離の原則、いまの今日の目から見ると必ずしも明快なる分離の原則が立っていたとはいえない。そういう関係から、新憲法は、特に意をいたしてこういう規定を設けたということは言えそうであります。

高辻は、第20条は戦前の教訓から「……特に意をいたしてこういう規定を設けた」と、答弁している。つまり、高辻が云うように憲法20条は帝国憲法にはない新憲法の核心部分であったのだ。谷口は、高辻の答弁を補足して述べている[3]

○谷口委員 要するに、戦前の経験から申しましても、戦前でいえば国家神道、宗教の一つとして国家神道、こういうものが政治の上に非常な実権を握りまして、国民の言論、集会、結社、基本的人権、これに対する抑圧の道具にされておる、こういう経験をわれわれは持っておるのでありますが、こういうことが再び起こってはならないという、非常に国民的な反省の上に立ってこの規定ができたもの、こうわれわれは解釈しておりますが、どうですか。 ○高辻政府委員 二十条の意味についてはいろいろ申し上げることがあると思いますが……信教の自由に関しては、特に神社神道との関連等の経験に照らして、こういう規定が特に強調されたということは、そのとおりでございます。

高辻も戦前の国家神道が第20条規定の背景にあったことを認めている[1])


([1]) 同上会議「237 高辻正巳」。

([1]) 同上会議「239 高辻正巳」。

([1]) 同上会議「240 谷口善太郎」。

続いて谷口は、一般論として政教分離についてその範囲を問いただした[1]

○谷口委員 それでは第二点を伺います。  この憲法の規定から見まして、国が、神社、仏閣あるいは礼拝堂、祭壇などの宗教的な施設を設置するとすれば、これは違憲になりますか。

○高辻政府委員 これは、憲法の規定が、おそらく二十条の三項の規定と、もう一つ八十九条の規定に関連があると思います。二十条の三項では、国はいかなる宗教的活動もしてはならない。八十九条は、公金その他公の財産を、宗教団体の便益等のために利用してはならないという規定がございますから、この規定からいって触れるようなことであれば、むろん憲法上できないということになります。

 谷口は、言論弾圧に関係している創価学会と公明党の政治家活動が憲法違反かと法制局長官に問いただした。しかし、法制局長官は最高裁判所の判事ではない。そのため憲法判断に関しては歯切れの悪いものとなった。つまり、谷口は、この憲法20条に関して最高裁判所の判断が下されていないため法律を制定する側の法制局長官に質問することになってしまった。谷口は、創価学会と公明党の活動が憲法違反かどうかの論議はやめて、憲法違反と考える理由を述べている[2]

○谷口委員 ……創価学会が政治的進出の第一歩として、昭和三十年四月に、一斉に地方選挙に出たのでありますが、このときに、東京都議会その他各地の地方議会へ全員五十四名の候補者を立てて選挙戦を行なっております。そのときの目的を創価学会の機関紙で調べてみますと、「聖教新聞」はこういうふうに社説で説明しております。……「広宣流布の終点は国立戒壇建立である。その為には国会での議決が必要だ、すると宗教の正邪に対して確たる信念を持ち国立戒壇建立を願う人々の代表が国会議員として多数居なければならない事は論をまたないのである。故に文化部員の政界への進出は当然でなければならぬ」こう言っております。それからもう一つの社説で、「現在の政治家に国立戒壇の必要を理解する様に要望しても到底無理な相談であって、逆に国立戒壇建立の必要を理解して居る人に政治家になってその道で生長してもらう以外に方法がないからである。だからこの志を持って居る人々に地方議会に出てもらいそこでの錬磨を経て国会へ出る迄その政治上の見識と実践カを養ってもらう事が必要になるわけである。」こういう点から地方議会に進出して当選された……宗教団体創価学会が言う戒壇というのは、これは宗門の本尊を安置して拝ませる施設でありまして、これを国立にするというので、戸田前会長や池田現会長の著作によれば、国会の議決によって国の施設として設立するということになっております。……

これに対して宗教法人を所轄する文化庁次長安達健二が、宗教法人としての創価学会の在り方について答弁している[3]


([1]) 同上会議「24⒉ 谷口善太郎」。

([2]) 同上会議「248 谷口善太郎」。

([3]) 同上会議「249 安達健二」。

○安達政府委員 ただいま御指摘の資料等、私ども直接見ておりませんので、具体的にそのような事実があったかどうかについては明らかにいたしませんけれども、国立戒壇ということが創価学会の大きな課題であるということについては、私どもも承知いたしております。

 昭和45年4月28日付で内閣総理大臣佐藤栄作から衆議院議長船田中に「衆議院議員谷口善太郎君提出宗教団体の政治活動に関する質問に対し、別紙答介書を送付する。」が届けられた[1]。この答弁書は、谷口が創価学会と公明党の活動が憲法違反ではないかと追及したことに対する政府の公式見解である。

 昭和45年3月9日、衆議院予算委員会においてご質問のあった国立戒壇の意義については、宗教法人創価学会の所轄庁である東京都知事から同法人に照会したところ、次のとおり回答があったので、念のため申し添える。

  • 本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする中心のことで、これは民衆の中に仏法が広まり。一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。
  • 既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行なわれており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これか本門戒壇にあたる。
  • 一時、本門戒壇を’国立戒壇’と呼称したことがあったが、本意は一で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行なりのであって、国家権力とは無関係である

この答弁の趣旨は、創価学会の問題となった教義「国立戒壇」を「本門戒壇」と解釈を変更していることから国立の宗教設備に当らないと決定したことである。すなわち日本政府は、創価学会の方便である教義変更を容認して憲法判断まで進まないことを決定したのだ。創価学会と公明党にとって「国立戒壇」が憲法判断となって違法判決が出ると国会から放逐されるところを、政府が教義の解釈変更を認めたことにより命拾いをしたのである。教義の解釈変更を認めたのは、岸信介の実弟である総理大臣佐藤栄作であった。この「憲法問題を正面から扱わないことを決定した」佐藤の決断により、自民党は「憲法判断が出てはこまる」公明党の生殺与奪を握ることになった。公明党が国会に議席を確保できるのは自民党が教義の解釈変更を容認しているからだけである。そのため公明党は、自民党と連立政権を維持し与党に留まる以外に術を無くしてしまった。公明党は自民党が進める重要法案には必ず賛成する以外に方法はなくなったのである。

その後、創価学会と公明党関係者の本音が平成7年の国会議事録に残されている[2]

○橋本敦君 ……矢野絢也公明党前委員長も文芸春秋九三年十月号に発表した「政界仕掛人極秘メモ全公開」の中でどう言っていますか。……「やはり私たちはともかく政教一致という御批判をいただいているが、確かに状況をみてみると、そう言われても致し方ない面はある」……また、何よりも政教分離宣言をした当の池田氏自身がどう言っているか。九四年九月十四日に行われた新聞各社との記者の懇談会の席上で、「学会は、政治とかかわることはやめません。こう言うとまた、政教一致などといわれますけどね。誤解しないでくださいよ。教義を実現するためには、政治の力がどうしてもいるんです。そういう目的で、公明党をつくったわけですから、これからも政治にかかわることに変わりはありません。」……この発言は、これは報道されましたけれども、創価学会は当時何の反論もしていませんよ。……一たん公に発言をした政教分離宣言を、まさにこれを破棄する宣言とさえ受け取られる重大な問題じゃありませんか。……


([1]) 『第63回国会 衆議院 本会議 第23号 昭和45年4月28日 末尾』51頁。

([2]) 「333 橋本敦」『第134回国会 参議院 宗教法人等に関する特別委員会 第4号 平成7年11月28日』。

 以上のように、創価学会と公明党の本音は国立戒壇であって、それが憲法違反の可能性があることを認識しているのだ。公明党の最大にして究極の苦悩が憲法20条の存在であることから、統一教会問題により再び「寝た子が起きる」ことを恐れているのだ。

四、憲法20条制定の深謀遠慮

前項では、第63回国会で憲法20条が問題となったことを見てきた。その中で、法制局長は憲法20条を制定した由来に付いて「……神社神道との関連等の経験に照らして、こういう規定が特に強調されたということは、そのとおりでございます……」といとも簡単な答弁で済ませている。しかし、ことはそれほど単純ではない。実は、憲法20条を制定した背景には、これもまた「国立戒壇」があった。

国立戒壇ということばが最初に登場したのは、明治34年発行の田中智学『宗門之維新』([1])の中であった[2]


図5.『昭和7年2月16日建国会議』出所:http://www.isobekaikei.jp/pages/755/(2022年9月17日 閲覧)。

田中智学は、大正12(1923)年には政界浄化をスローガンに立憲養成会を結成し、翌年2月総裁として衆議院議員に立候補し、選挙活動を展開するが投票結果は落選で終わった。このころの、智学が政治と宗教との関係について「予が他日政治に関与する場合は、必ず合掌内閣を造る。(中略)畏れながら帝室に対し奉りては、讃仏の礼を以て合掌恭敬するのであり、下万民にむかっても、その内在せしめている尊重の仏性に対して合掌するのである」と講演会で語ったと言われている[1]。つまり智学は、日蓮宗が政権を取った暁には、仏性に天皇も合掌恭敬し恭順の意を示してもらうとしていて、国立戒壇の本質がよくわかる話である。

その後、日蓮宗が大きく動き躍動する機会が訪れた。予てから日蓮宗門九宗派は、政府に大師号降賜の講願書を提出していたが、大正12(1922)年に大正天皇の病気により摂政に就任していた後の昭和天皇は日蓮宗に対して立正大師諡号宣下が実現した。この活動の中心にいたのは日蓮宗妙満寺派本多日生と、国柱会田中智学であった。本多日生はこ

の出来事を国民教化の武器と捉え、各地で教化活動を展開することにした([1])。教化活動は、当時の世相とも相まって、軍人、政治家は言うに及ばず国民の間に広がっていった。これが戦前の右翼運動の中心的な思想背景となったことは注目すべきことである。その代表的な出来事が、日蓮上人の誕生日であった昭和7年2月16日、大和ホテルで張景惠、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭会談により開催した満洲建国会議であった。会議では、壁面に国柱会信者でもあった石原莞爾が持ち込んだ『南無妙法蓮華経』のお題目が掲げられていていた。このとからもわかるように満洲国の基本理念は国家戒壇であったことは間違いない。海外の日蓮宗研究でも、田中智学の国柱会が、創価学会のモデルであるとしているくらいである。国柱会も創価学会も国立戒壇が最終目標であることから当たり前の結論と云える[2]

ところで平成天皇は、平成3年の新年所感で「……満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と述べられている。平成天皇も、満州事変により満洲国が建国したことが昭和20年8月15日の敗戦の原因であったという歴史認識をお持ちであることは間違いない。そして、満州事変に続く一連の右翼運動の背後に国家戒壇の思想が入り込んでいたという事実を述べたならば、天皇の政治的な発言と受け取られることを恐れ差し控えられたのだ。

ところで、戦前の右翼運動史が国立戒壇の影響下にあったとする議事録がないか調べてみた。

春日一幸が昭和42年5月25日、『宗教団体の政治的中立性の確保等に関する第三回質問主意書』とする質問主意書を衆議院議長に提出していることが判明した[3]。この趣意書は、創価学会と公明党の宗教的関係及び同宗派が戦前政治に与えた影響を要領よくまとめてあって、問題の全容を把握するのは絶好の記録であることが判明した。

……

四 公明党は、創価学会の教義に基づき、王仏冥合の達成、すなわち、個人の幸福と社会の繁栄の一致をめざす宗教政党である。この点は、その綱領をいかに変改し、粉飾しようとも、はたまた、いかに形式的に人事を創価学会と切リ離したしたとしても、その本質は、いささかも変わる物ではない。

 王仏冥合とは、「王法と仏法とが冥合すべきである。王法とは一国の政治、仏法とは一国の宗教を意味する。宗教が混乱する時には国の政治も混乱する。……社会の繁栄が即個人の幸福と一致しないということか、昔からの政治の悩みではないか。ここに日蓮大聖人が、政治と個人の幸福とは一隻しなければならぬと主張遊ばされたのが王仏冥合論である。社会の繁栄は、一社会の繁栄であってはならない。全世界が一つの社会となりて、全世界の民衆がそのまま社会の繁栄を満喫しなければならない。それが王法と仏法との冥合である。」([王仏冥合論]創価学会会長戸田城聖)と、王仏冥合論は、このように説かれている。 また、池田大作命艮の「王仏冥合の新時代へ」と題する講演によれば、本門戒壇こそ、国家泰平、世界平和祈願の根本道場であり、「日本、中国、インド、いな全世界の人々が懺悔滅罪を行なう場」であり、「のみならず、世界の指導者たちが、世界の恒入平和を祈願する根本道場」であると説かれている。

公明党は、以上のような教義に基づき、政冶上の権力を行使するため、政権をめざす宗教政党であるから、これを放任するときは、昭和年代の国体明徴運動が、祭政一致とか八紘一宇とかいったスローガンのもとに次第に狂信的なものに発展し、ついに大東亜戦争に突入してしまったように、わが国は、このことによって再び過去の轍を踏むにいたるおそれがあると考えるがどうか。

五 わが国の憲政史を概観するに、大正の後半から昭和の初頭にかけ、昭和軍閥と呼ばれる体制が現われ、これが右翼指導者や革新官僚と結びつくにいたり、三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件、神兵隊事件等を起こし、また、済州事変、支那事変を起こし、ついにわが国は大東亜戦争に突入して、悲惨なる敗戦を招いている。その思想的根拠となったのが、祭政一致とか八紘一宇とかいう国家神道であり、これが軍国主義国家主義と結びついて世論を席捲し、前記の重大事件を惹起するとともに、あるいは国体明徴運動となり、あるいは大政翼賛運動となって、大政翼賛会と翼賛政治会を発足せしめて、時の権力者に対する批判的な声は一切これを弾圧し、国民生活を意のままに統制、強圧する独裁政治を実現するにいたったものである。この歴史の貴重な教訓は、肝に銘じて忘るべきではない。……


([1]) 同上論文(12頁)。

([1]) 『近代日本における日蓮仏教の宗教思想的再解釈』34頁。([1]) 『第63回国会 衆議院 追録』75頁。

同質問主意書の戦前の憲政に国立戒壇の考えを持ち込ませたことが最大の失敗であったとしている。その観点から公明党が国立戒壇の考えを引き継いで国会に入り込んできた場合は、再び過去の轍を踏むおそれがあると警告している。春日一幸の慧眼である。

この創価学会と公明党の国会進出を十分に研究したのが統一教会である。既にみてきたことであるが統一教会の行動の変化を振り返ってみると、昭和60(1985)年頃は、統一教会に敵対する勢力には武力で対峙して自己主張を押しとおそうとしていた。ところが昭和62(1987年)暮れには、選挙で60億円を使用したと豪語していることからわかるように、合法的な選挙で政権を簒奪する手法に移行していった。この時期、統一教会が方針を変更した理由は、警察が殺傷能力の高い空気銃を厳格に規制したことと、赤報隊と名乗る集団が統一教会の名前をかたった犯行声明をだしたことから、否応なしに警察の捜査が確実に近づいていたはずである。そのため、それまでの路線を継続することが困難になったうえに「天の声」が有ったのかもしれない。

しかし統一教会が、公明党と同じように国政選挙に候補者を立てても、組織も小さく党員数も少ないうえに各地で社会問題を起していたことから、国政選挙を通じて国会議員の議席を獲得できる可能性はほぼ皆無である。万が一、議席を獲得しても憲法20条「政教分離」の壁があってこれも超えることはできなかったであろう。そこで編み出された手法は、保守である自民党内部に日本の国体である憲法を破壊する政策集団を自民党内に増やして時期を待つということであった。それとともに自民党内にのこる統一教会とは一線を画す「憂国」の議員を、様々な難癖をつけて主要ポストから排除して活動ができないように締め付けて行った。その結果、今では、上は議長から、下は元アイドルまで、すくなからず統一教会の影響下にある自民党国会議員は、121名(2022年9月8日 自民党発表)にまで及んでいる。文鮮明が「国会内に120名以上の統一教会を作る」と指示したこととあまりにも一致する数字である。

この数字を見る限り統一教会がおこなってきた国政選挙で国会議員を獲得する作戦は大成功したことになる。ただし『文鮮明先生み言葉選集』192巻が正しければであるが。

(第一回終了)

次回は小日向白朗学会が所蔵する『岸信介日韓経済界人脈関連図』から、同図に登場する人物を国会議事録で今回と同様に検索した結果を報告する。

(仮題)第三項 検索キーワード[岸信介]

図6.『岸信介日韓経済界人脈関連図』
出所:小日向白朗学会所蔵

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