小日向白朗映画化によせて・・・

寄稿文

中国国歌『義勇軍行進曲』のモデルが日本人であることは、あまり知られていません。
中国名『尚旭東』(シャオ・スイトン)。中国民衆からは、伝説の英雄『小白竜』(シャオ・パイロン)と呼ばれた馬賊王・小日向白朗(1900年~1982年)、その人です。新潟県三条市出身の白朗は戦前の旧満州を中心とする広大な荒野をかけめぐり、一時は、馬賊の頭領として7万とも8万ともいわれる配下を引きつれ何度もの修羅場をくぐりぬけてきました。


そんな小日向白朗のモットーは、「義気千秋」「除暴安良」。義侠心を大切にし、暴力を排して良民を助ける心。その思想的バックボーンは、日中の真の友好を願う『アジアは一つ』という大きな理想。日本軍と中国軍の間に立って、両者の融和に務め、日中戦争の前夜、蒋介石との和平工作に当たった事実は、ほとんど知られていません。その後、日本軍の裏切りにもめげず、上海に潜入した白朗は、日本軍系テロ組織『金家坊99号』の首領として国府系『軍統』、共産系テロ組織などとの凄惨なスパイ戦を戦い抜いてきました。。


終戦から5年、幾多の困難を潜り抜けた白朗は、1950年(昭和25年)日本に帰還。中国大陸での白朗の活躍は、自ら筆を執った『日本人馬賊王』や朽木寒三著『馬賊戦記』によって多くの人に知られていた反面、戦後の白朗については、多くの謎に包まれてきましたが、最近の研究で白朗の戦後の活躍の全貌を明らかになりつつあります。その白眉は、白朗の貴重なアドバイスが、あの歴史的な米中国交回復を前進させるために大きな役割を果たしという驚くべきものなのです。


今、長編ドキメンタリー映画として製作中のこの映画は、白朗の戦後の活動を明らかにする研究者の証言や資料、当時、行動を伴にした国会図書館調査員・故藤井信の子息・建(たける)氏の証言などによって、『中国の赤い星』のエドガー・スノーから、「米中国交回復の扉を開けるのは、世界でただ一人」と指名され、秘密裡にキッシンジャーの元に招聘された白朗の活躍を探ります・・・

白朗の根底にあったのは、中国大陸での人知を絶する壮絶な体験を経て培われた「自覚的民族主義者」「現実主義者」としての透徹した眼差し。今や、歴史の闇に消え去ろうとしている「小日向白朗」ですが、混迷が深まる現代であるからこそ、私たちは、そんな白朗の「思想と行動」に光を当て、深く捉え直すことを通じて、日本と中国との真の友好を切り拓く礎を築くとともに、アジアの一員として生きる我が国の明日を考える縁ともしたいと考えています。


私が小日向白朗に出会ったのは2007年ごろ。白朗のスケールの大きな生き様に魂を揺さぶられた。その後、調査を進めていくなかで白朗が帰国後5年間、大牟田に住み、生涯の伴侶になる杉森芳子さんと出会ったたことを知って、私の背中に電流が走りました。

大牟田は、私が生まれ育ち愛してやまない故郷だったからです。
                            (映画監督  港 健二郎)

(港健二郎の略歴)


1947年 福岡県大牟田市生まれ。
1966年 福岡県立三池高校卒。
1970年 早稲田大学第一文学部卒業。
      鹿島映画(現Kプロビジョン)入社。
1982年 フリーランスとなりテレビ番組、劇映画など
      作品多数。現在に至る

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