令和四年五月五日、大野芳氏は肺がんのためご逝去されました。心からご冥福を、お祈りいたします。私は、大野氏の最晩年に、親しく近代日本史に付いて意見交換をさせて頂きました。その時私が感じたことは、文学界の大家であられる大野氏がその業績に慢心することなく、日々研鑽されている様子に非常な感銘を受けたことです。
如何なる問題かといえば、副題にした「哈爾浜駅レストラン二階」ということです。一一〇年ほど前、伊藤博文が哈爾浜駅頭で暗殺されたときに背後から狙撃した犯人の狙撃位置が「哈爾浜駅レストラン二階」であったのかということです。その結論については、大野氏が既にご自身で文章として表すことができないといという悲しい現実があることから私が代わって纏めおくことは、大野氏への供養となるばかりではなく、これからの歴史研究に大きな足跡を残すことになると思い追悼文を寄稿することにしました。
終戦後、満洲から引き揚げてきた小日向白朗にインタビューを試みたジャーナリストは多い。しかし聴取した内容を自書の中で直接引用して紹介しているのは大野芳氏『伊藤博文暗殺事件』([i])位であろう。ところで小日向白朗と大野氏の関係であるが同書冒頭にある次のインタビュー部分が如実に示している。
……昭和四十五年(一九七〇年)年ころのことである。わたしは、I.R氏なる六十歳半の経歴不明の人物と関わりをもった。……そのI.R氏から 「伊藤博文は、ハルビン駅二階のレストラン従業員の更衣室から、フランス製の騎馬銃で撃たれたんだぞ。真犯人は、安重根ではない」と、聞かされた。
……そのI.R氏は、右翼の系列から紹介された。
情報のウラを取ろうと、わたしは……I.R氏の後ろだてと思われる小日向白朗氏を訪ねた。もちろん、I.R氏が小日向氏の名前を明かした訳ではない。結論を急げば、情報源は小日向氏のようであった。
「わしが中国人から聞いた話では、騎馬銃で撃った。それがハルビン駅の二階のレストラン従業員の着替え室からだ、と」
小平市の自宅で、小日向氏は言った。当時、七十歳ぐらいだっただろうか。
この証言は、I.R氏の話と符合した。
小日向氏は、知るひとぞ知る満洲馬賊の頭目をしていた人物だ。作家朽木寒三が小日向氏をモデルに『馬賊戦記』番町書房刊を書いているが、大正五年から敗戦にいたる混乱の中国大陸を、縦横無尽に駆け回っていた大陸浪人である……
つまり大野氏は、I.Rという人物から、伊藤博文を狙撃した犯人は安重根ではなく、実際の犯人は哈爾浜駅二階にあったレストラン従業員更衣室から狙撃したということを聞き出した。大野氏は、I.Rの話に興味を抱き本格的に伊藤暗殺についいて調査を開始することになる非常に重要な導入部分である。このインタビューの鍵は、I.Rが伊藤暗殺に関する重要情報を大野氏に話したが、それはI.Rが小日向白朗から聞いた又聞であった。
通常ならば「問わず語り」は確たる証拠もないため説得力に欠けるものである。そのためI.R を通じて小日向白朗に取材を申し入れ実現したのが上述の小平にあった小日向白朗宅で両者が会談した時の様子である。その結果として大野氏の中で沸き上る創作意欲の発露が『伊藤博文暗殺事件』とうい「哈爾浜駅レストラン二階」から狙撃した犯人を追い求める大著となった。実は大野氏と同じように伊藤を背後から狙撃した犯人は哈爾浜駅レストラン二階だとする証言がある。
それは伊藤に同行していた室田義文である。後年、室田の経歴等を編纂した『室田義文翁譚』([ii])の中で「……つまり、伊藤の負傷は三弾とも、階上から斜下に向けて発射した傷であって、断じて露兵の股間から拳銃を突き出して射撃したものではない……」と述べている。大野氏が小日向白朗に確認したことと同等の証言を随行員であった室田義文が同等の証言をしていた。
ところで、私が親しくお会いするうちに、大野氏がふと「最後まで哈爾浜駅の構造を調べることができなかった」ということを漏らされたことがあった。大野氏は、自書の中で安重根以外の犯人がいて、その犯人は「哈爾浜駅レストラン二階」から狙撃したという結論にしたが、実際の哈爾浜駅は既に取り壊されてその姿を知るすべもないうえに、設計図面も八方手を尽くしてみたものの見つけることができなかった。つまり「哈爾浜駅二階」の存在は確認できていなかったのである。そこで私は、哈爾浜駅の構造を示した著書があることを説明し、後日、お貸しすることを約束した。その著書が黒崎裕康『伊藤博文公爵の最期』([iii])である。
同書には、哈爾浜駅の概要と、その周辺の写真及び平面図などが解説付きで掲載されている。それによれば哈爾賓駅は、東清鉄道の開通に合わせて一八九九(明治三二、光緒二五)年にスンガリ駅として開業した。一九〇三(明治三六)年七月に本格的な駅舎として着工し、竣工は一九〇四(明治三七)年末であった。哈爾浜駅着工翌年の七月は大石橋の戦いの頃であり、竣工が乃木の第三軍が二〇三高地攻略に漸く目途が立ち始めた頃である。
哈爾浜駅の建築規模及び構造は、地上一階建て、一部二階建ての煉瓦とコンクリートの混合造りで、建築総面積は二一〇〇㎡、総工費は一六万ルーブルの費用を要した。基本設計はサンクト・ペテルブルクの鉄道管理局が行ったが、その特徴は、冬の寒冷に対処するために一階の床面を〇.五サージェン (一.〇六m)地面から持ち上げた高さに置いた。したがって、したがって駅前広場から入るには、六段ある階段を上がることになる。
床は鉄筋コンクリート造りだが、基本的な外壁は厚さが約七〇cmの煉瓦造りで、その表面は石灰モルタルを塗ったうえに漆喰を塗装し、さらに様々なアールヌーヴォー様式の装飾を施してあった。 屋根は、屋根裏空間を施したうえに銅板葺となっていた([iv])。一階にある一・二等客旅用の待合室及び食堂は、天井までの高さが六.九三mもあったので、一階の明かり取りのため、高窓がプラットホーム側に設けてあった(。ホーム側からは一見して、二階辺りと見える部分にアールヌーヴォー様式の高窓という偏平な丸窓があった。したがって高窓は二階の窓ではなく、一階の明かり取り窓であった。
一・二等待合室の奥にある一・二等食堂には、プラットホームが見渡せる天窓がある窓が四つあったまた、プラットホームは駅舎側に一ヶ所あるだけで、その幅は約一九メートルの幅であった。そして、プラットホームの駅舎側は〇.五サージェン(一.〇六m) の高さがあったが、線路側の高さは二〇cm程度であったため、高低差は八〇cmあった。そのため乗客が一・二等待合室を出ると緩いスロープとなっていて、ホーム端で車両に乗車する際は短い梯子を利用する必要があった。そのため、ココフツォフ大蔵大臣は、伊藤の哈爾浜駅に到着し、貴賓車内に伊藤を出迎えるために衛兵が昇降口に立てかけた三段の梯子段を上がって入っているほどであった。同書の中で哈爾浜駅の構造からホーム側に二階は存在しないことから、大野氏のいうところの二階から狙撃することはできないという結論を導き出している。
一見すると両論は、相矛盾するようであるが、実は両論とも正しいのである。実は、伊藤の遺品が存在し、背面に銃弾痕が鮮明に残されている写真が存在するのだ([v])。それが「図五.伊伊藤博文着用のフランネル・シャツ」である。伊藤が着用していたシャツの背中側に銃弾痕が残っていたことが確認できる。したがって大野氏が主張する伊藤が背面方向から狙撃されたということに間違いはない。ただし狙撃場所は哈爾浜駅レストラン二階ではないという結論となる。
生前に大野氏は、黒崎氏が著書の中で示した「哈爾浜駅に二階は存在しない」ということに同意しておられた。そのため大野氏は、黒崎氏に連絡を取り対談を申し出られていた。しかし黒崎氏は、体調が優れず対談の際に失礼があってはと辞退された。その代わりにと、ご自身の著書を大野氏に贈られている。その黒崎氏も、昨年お亡くなりになられてしまった。
現在の伊藤博文暗殺事件に関する様々な研究があるが、小日向白朗と室田義文の証言にある「哈爾浜駅二階からの狙撃」を根拠とする研究は、大野氏と黒崎氏という両雄による伊研究成果により同事件は抜本的な再検討を迫られることになったのだ。
名古屋 貢
([i])大野芳氏『伊藤博文暗殺事件』新潮社(二〇〇三年八月)。
([ii])室田義文翁物語編纂委員編『室田義文翁譚』常陽明治記念会(一九三九年一月)二五五頁。
([iii])黒崎裕康『伊藤博文公爵の最期』地久館出版(二〇一六年一〇月)。
([v])木村孝子,増本寛「故伊藤公遭難時の肌衣に就ての法医学的考察」『犯罪学雑誌』日本犯罪学会(一九六〇年〇八月)八一頁から八五頁。
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